額安寺の教え


智恵人に導かれた千三百余年。

額安寺は、仏教の興隆に大きな功績を残した「聖徳太子」、頭脳明晰な女帝として太子とともに飛鳥時代を公正に治めた「推古天皇」、唐から密教の修行法を伝え日本書紀の編纂にも関与した「道慈律師」、鎌倉時代に社会福祉事業に貢献した「忍性菩薩」など、智恵と人徳にまつわる様々な歴史上の人物が深く関わっています。


聖徳太子

学び舎としての熊凝精舎。

聡明叡知で仏法を尊んだとされる聖徳太子が、釈尊(ブッダ)の祇園精舎に倣って創建した学びの道場「熊凝精舎」が山号の由来です。額安寺は621年に熊凝精舎を置いた跡地に建立された寺院で、後に東大寺、興福寺と並ぶ大寺となる大安寺の前身であると言われています。聖徳太子は病を養っていた頃、推古天皇の「希望するところは何か」という問いに、「熊凝の精舎を朝廷に献じ、大寺となし永く後世に伝えるように」と志を述べられたとされており、聖徳太子が深く愛した寺社として現在まで語り継がれています。

イメージ:聖徳太子

推古天皇

額にできた瘍が平癒。

寺号の由来は、 推古天皇が額に瘍を病まれた際に、熊凝精舎の薬師如来に祈願されたところ、跡形もなく快く平癒されたことから「額安寺」の名を賜ったと伝えられています。推古天皇は頭脳明晰な人物で、聖徳太子が49歳で薨去した後も、自身が75歳で小墾田宮において崩御するまで、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図ったと言われています。額安寺の近くには近くに推古神社があり、額田の氏を持つことから近辺出身とも言われています。聖徳太子の叔母で、わが国初の女帝として有名です。

イメージ:推古天皇

道慈

虚空蔵菩求聞持法を伝えた律師。

額安寺住職第一世となった道慈律師は唐に渡り、虚空蔵求聞持法という密教の修行法を日本に伝えた人として有名です。長安の西明寺で16年間学び、三論宗に精通していたことから仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれています。帰朝して金光明最勝王経や虚空蔵菩薩求聞持法をもたらし、大安寺伽藍の造営・移設に尽力しました。今も寺に伝わる虚空蔵菩薩像は、道慈が額安寺に安置礼拝していたもので、我が国における虚空蔵求聞持法の最初の根本本尊です。大安寺の平城京移設事業を終えた道慈はこの地に隠退して、宗法の興隆に努力していたと言われています。「日本書紀」の編纂にも関与し、日本最古の漢詩集「懐風藻」にも入集するなど、仏教的な見識に加え、文学的な才能も有していたと考えられています。

イメージ:道慈

忍性(良観)菩薩

社会に貢献した鎌倉時代の高僧。

鎌倉時代に仏像修理などの復興活動を行ったのが忍性菩薩です。額安寺周辺の出身である忍性菩薩は、文殊菩薩を本尊とした社会的弱者の救済活動を行った人物で、今日においての社会福祉事業に貢献した僧として有名です。南都七大寺の一つ西大寺に住み、奈良市の奈良坂に日本最古の救癲施設(ハンセン病患者救済施設)「北山十八間戸」を建て、「文殊を供養する人の前に、文殊は貧しく身寄りのない人に化して出現する」という考えのもと、物乞いに出られない重症の癲者を背負って町に出て、物乞いの手伝いをしたと言われています。関東地方でも鎌倉桑谷の療養所で20年間で約46800人を介護したり、療病所と公衆浴場と貧者を収容する施設を作ったりするなど、貧者への救済事業を数限りなく行っています。

北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんど)

鎌倉時代(1243年)に忍性菩薩が奈良の北山に建てたハンセン病患者救済のための福祉施設。永禄10年(1567年)に戦災を受けて焼け、寛文年間(1661年〜1672年)に現在の地に移転。東西約37メートルの細長い長屋に4畳〜2畳の部屋が名の通り18室続き、東端の大間に仏間が広がる。忍性菩薩がここで衣食住を供した収容者の数は、延べ1万8千人と言われている。

イメージ:忍性(良観)菩薩

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