歴史と歩み


額安寺年表

飛鳥時代:621年

額安寺開山

聡明叡知で仏法を尊んだとされる聖徳太子が、釈尊(ブッダ)の祇園精舎に倣って創建した学びの道場「熊凝精舎」が山号の由来です。額安寺は621年に熊凝精舎を置いた跡地に建立された寺院で、後に東大寺、興福寺と並ぶ大寺となる大安寺の前身であると言われています。


奈良時代〜平安時代:710年〜

仏教渡来に寄与した交通の要

古くから額安寺周辺は、初瀬川と佐保川が合流する古代水路による交通の要所で、瀬戸内海から大和川をさかのぼって都へと繋ぐ<仏教伝来の入口>として機能していました。全盛期の寺域は極めて広大で、額安寺の伽藍とその寺領を表すために作成された国宝「額田寺伽藍並条里図」によると、南北約200メートル、東西300メートルに及び、金堂・講堂・塔・中門・南大門・池・回廊・その他の諸堂が立ち並ぶ、仏教渡来の門戸にふさわしい偉容を示していたと考えられています。

※額田寺伽藍並条里図(国宝)

額田寺は奈良県大和郡山市額田部にあった額田部氏の氏寺で、額安寺の前身と言われています。条里図は、伽藍とその寺領を表すために作成されたもので、縦113.7㎝、横72.5㎝の麻布に当時の様子が描かれています。その記載範囲は南北約1100メートル、東西約700メートルにわたり、畿内の中級貴族の氏寺とその寺領の詳細を現在に伝えています。奈良時代の伽藍配位置を絵として残した例は他に類を見ず、奈良時代の遺品として非常に貴重なものと言えます。条里図は、千葉県国立歴史民俗博物館にて収蔵されています。

イメージ:額田寺伽藍並条里図

千葉県国立歴史民俗博物館にて収蔵

奈良時代〜平安時代::718年

道慈が虚空蔵求持法を伝来

額安寺住職第一世となった道慈律師は唐に渡り、虚空蔵求聞持法という密教の修行法を日本に伝えた人として有名です。今も寺に伝わる虚空蔵菩薩像は、その当時(奈良時代)道慈律師が額安寺に安置礼拝していたもので、我が国における虚空蔵求聞持法の最初の根本本尊です。大安寺の平城京移設事業を終えた道慈はこの地に隠退して、宗法の興隆に努力していたと言われています。平安時代になると平安京遷都の影響もあり次第に衰退し、仏像の一部を一時が興福寺に移されたとも伝えられています。


鎌倉時代:1192年〜

二人の高僧による寺院復興

鎌倉時代に入ると額安寺の寺運はやや衰えますが、高僧興正菩薩(叡尊)やその弟子の忍性菩薩等によって仏像修理など復興活動が行われました。特に額安寺周辺の生まれである忍性菩薩は、文殊菩薩を本尊とした社会的弱者の救済活動を行った人物で、今日においての社会福祉事業に貢献した僧として有名です。額安寺のから北へ約300mの所に佇む鎌倉墓という五輪塔群は、忍性のお墓だと言われています。


室町時代〜江戸時代:1499年

戦国の世における衰退と移築

額安寺は、明応8年(1499)に、細川政元の命を受けた沢蔵軒宗益が大和国へ侵入した際に他の寺院と共に焼き払われました。戦国時代に突入し、織田信長の検地当時には180石の寺領も没収されて本堂(もとの講堂)一宇を残すのみとなり、雁塔も豊臣秀吉の命により摂津の四天王寺へ移すことを条件に1町歩を与えられました。これによって江戸時代を通じて額安寺は朱印地12石を許さましたが、時代を下ると共に衰退の途をたどることとなります。


明治〜昭和時代:1868年〜

前住職による昭和復興。

明治の中頃までは寺域に一万余坪を残していたのでありますが、国の体制変動に応じて寺領のほとんどを失い、その後しばらくは廃寺にひとしい状態に置かれていました。近年、飛鳥時代の法燈を受けつぐ名刹額安寺の荒廃を嘆く声も多く寄せられ、額安寺の衰亡することに憂えた前住職が、昭和五十年から補修建設を加えて今日の姿まで復興しました。


平成時代:2007年〜

仏舎利拝受による平成復興。

宗教画の中心に世界で活躍した杉本哲郎画伯より、インドのネール首相から贈与されたという釈迦の遺骨「仏舎利」が奉納されました。仏舎利の奉納に際して拝受式が大々的に行われて角界の著名人が列席し、額安寺は1300余年の歴史を経て、仏教の精神を多くの人に伝えるための新たな一歩を踏み出しました。


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